近頃、当地で連日報道されている「南タイの人身売買」について解説してみたい。一般的に考える人身売買とは全く構図が違い、ニュースを読んだだけでは実態が掴めず首を捻るしかなかったため、調査を行った結果を報告する。

報道では、以前より南タイのアンダマン海側(西側)海岸へ、小型船舶にぎゅう詰めに乗り込んだ難民がミャンマーから何度も流れ着いていたが、タイ海軍は毎回それを追い返していた、とされている。つまり難民認定の対象として扱われることなく、上陸を拒否していた訳である。この行為がすでに人権蹂躙に値するのでは無いかと思うのだが、最近になって難民の一部がタイに上陸し、山中には難民キャンプまがいの施設が設置されていて、難民の中には殺害され埋められていた者もあったということが判明して警察が捜査に着手したことで大きく報道され始めたのである。

歴史を遡ればロヒンギャのルーツはベンガル人である。べンガル人は主にバングラデシュとインド領ベンガル州に居住し、インド独立の際にヒンドゥー教徒は西ベンガル州に、イスラム教徒はバングラデシュにと分割された。ついでに言うとバングラデシュとは「ベンガル人の国」という意味である。インドにはウッタル・プラデーシュ、ヒマチャル・プラデーシュ、マディヤ・プラデーシュ、アーンドラ・プラデーシュなど〝デーシュ″のつく州が多くある。つまり古くは独立した王朝であった地方がインド共和国となった時点で州になった訳だ。中央アジアの国名によくある〝スターン″に類似するものだと思う。インド西部にもラジャスタン州がある。

その独立以前の英国植民地時代、今回舞台となっているミャンマーの地域は「アラカン王国」と呼ばれており、その支配地域は現在のミャンマー西部と、バングラデシュ領チッタゴンやコックスバザール周辺であった。支配はやがてビルマ王朝、英国統治へと変遷したが、英国植民地政策の常套手段である分割統治により、当王国の農地はベンガル人イスラム教徒移民に与えられた。これがこの地域の「仏教徒対イスラム教徒の対立」の始まりだとされる。

その後英領行政が破たんすると、失地回復したアラカン人たちはミャンマー軍と共闘し、ロヒンギャの迫害と追放を開始した。またその政策は後のネ・ウィン将軍の軍政下において、ロヒンギャの国籍剥奪を立法化するに至った。

1988年には、ロヒンギャがアウンサン・スーチーの民主化運動を支持したため、当時の軍事政権は財産差し押さえや強制労働などさらに強烈な弾圧を行った。それ故、後の政権下では多くの難民が彼らの故国であるバングラデシュに難民として亡命したが、その際に国際救援物資が彼らの元に届かず、約1万人が死亡したと言われている。

昨今の事態については次回、報告させていただく。