前回、前々回の報告に関連して、今回は私的な立場でイスラムおよびイスラム教徒について考えてみよう。

7月10日付報道、中国からタイに逃れて来た100名のウイグル人(イスラム教徒)をタイ政府が中国へ強制送還したと報じられた。当初300名のウイグル人が昨年9月に不法入国者として身柄を拘束され、その内100名が今回強制送還されたということだ。この件に対し米国務省報道官は、「送還されれば法的手続きを経ずに残酷な扱いを受ける可能性の高い」彼らを追い返したタイ政府を批判し、中国政府に対しては「国際的な人権基準に基づいた適切な対応」を求めた。一方、ウイグル人が多く居住しているトルコのイスタンブールでこの措置に対する抗議デモが起き、タイ領事館が襲撃されたと報じられた。

元来タイ政府は、難民受け入れに関して消極的であり今回の措置も慣例にしたがったまで、であろうが、何故か世間一般(つまり非イスラム世界)がイスラムに対し、他の宗教信者に対してとは異質な対応、一貫して厳しい態度を取っており、イスラムは不公平に扱われている気がしてならない。

試しに「イスラム教徒 迫害」などとWEB検索してみると、10件の内9件はイスラムが異教徒を迫害したという記事が表示される。

歴史を遡ると、イスラム、キリスト両教徒の争いは10世紀に始まった、と云われている。セルジュークトルコに奪われたエルサレム(現イスラエルにあるキリスト教徒、イスラム教徒、ユダヤ教徒にとって共通の聖地)を奪回するため東ローマ帝国のカトリック勢力が派遣した十字軍がおそらく最初であろう。聖地・巡礼地を奪い返すという大義名分で開始された十字軍派遣であったが、異教徒(つまりイスラム)に対する弾圧やヴァチカンの法王を頂点とするカトリック教会勢力の拡大、後には通商利権の確保にまで利用されていった。各国に軍の派遣を要請する協会側と、軍の派遣を行うそれぞれの国家の思惑は全く別の物であった様だが、結果的に9回、約300年もの間繰り返されたのである。9.11テロの直後ジョージ・ブッシュ大統領が、「We have to crusade(我々はクルセイドしなければならない)」と思わず公言して批判されたクルセイドは、イスラムを弾圧するという意味であって、十字軍は英名クルセイダーズなのである。私はトルコのエーゲ海沿いの港湾都市にある、聖ヨハネ騎士団が十字軍参加の拠点としても利用したボドルム城を訪れたことがある。

その後中世の長期間に亘り、北アフリカ・イスラム教徒の一部が海賊となり地中海対岸のイタリア、フランス、スペインの沿岸都市を襲って、略奪・誘拐を繰り返した。それに対しキリスト教側の騎士団や様々な団体がアフリカ大陸に乗り込み、身代金と引き換えに誘拐された被害者を取り戻すということが繰り返された時代もあり、憎悪はさらに蓄積された。オスマントルコなどは「赤ひげ」という勇猛を以て名を馳せた海賊の棟梁を正式に海軍提督として任命した、という事実もある。オスマントルコは元来精強な陸軍のみで勢力を拡大した国で、金で船の建造を盛んに行っても、それを率いる海軍の人材は育っていなかったという事情がある。こうしてこの二大宗教の敵対関係は歴史を超え現代まで続いている。ただし我々の学ぶ歴史資料が常にキリスト教側の書いた歴史であることも忘れてはならない。

アジアに目を向けれてみれば、インド独立の歴史がある。英国統治下では分割統治という手法で抑えられていたヒンドゥー・イスラム両勢力の対立であったが、独立を目前にして激化し、ガンディーの唱えた「ひとつのインド」としての独立は叶わず、マハトマとイスラム側の代表ムハマド・アリ・ジンナーの協議の結果、イスラムは西パキスタン(現パキスタン)と東パキスタン(現バングラデシュ)の二か国で独立、そしてヒンドゥーはインドとしての独立を勝ち取った。もちろんインドは文字通りヒンドゥーの国(ヒンドゥー教はそのままインド教の意)なのだから仕方ないのだが、ガンジス川河口に位置するバングラデシュは、雨季になれば国土の2~3割が河と化す、またインド本土のバングラデシュ国境と接する地域はベンガル州であり、どちらもベンガル人の国、であるのだが、重要な物産であったジュートの産地、そして商都として名高いカルカッタ(現コルカタ)はインド本土側に線引きされたのである。前回・前々回で報告したロヒンギャの悲劇も、この様な不平等が遠因であったと云えないだろうか?

そして私が個人としてお付き合いのあったスリランカやバングラデシュのイスラム教徒たちは、全く素朴で真摯に生きる人達だった。学生時代の旅先で、偶然スリランカ東部の海沿いの村の、小さなモスクを管理するハジ(イスラム指導者)や村の幹部たちの自宅に2~3週間居候させていただき、様々な人と触れ合えたのは、30数年を経た今も貴重な財産だと思う。であるからこれは私の大きな贔屓目であって、またどの宗教に属するかには関わりなく暴力を肯定することは絶対にできない、と付け加えておく。