タイのバンコクを発ち70分のフライトでカンボジアの首都プノンペンに着いてしまう。国内の地方都市と同じくらいの距離感だ。

 私は20数年前に数度入国している。そのうち2度は空路でプノンペンに、1度はタイの東の国境を小振りのボートで超え、現地の人に紛れカンボジア側のコン島に上陸した。世間一般ではこれを密入国と呼ぶだろう。今思えば優しい時代であったと思う。

 その時期は日本の自衛隊や警察隊を含めたPKOが駐屯し、一時的なバブル景気が起きていた。なにしろそれまで外国に対し国境を閉ざしていた最貧国に大勢の外国人がドルを持って入ってきたのだから、言ってみればそこらじゅうで札束が舞っている状態であったと思う。また同時に、難民として海外へ移住していた人々がいちどきに帰国した。その難民と言われていた人々の大半は財産を抱え共産主義政府から逃げ出した経済難民であり、開かれた祖国で再度ビジネスの基盤を築こうという人々も多かった。私がたまたま知り合ったお二人も例外ではない。一人は、バンコクに脱出し宝石商を営んでいたJさん、その当時プノンペンで唯一の5スターホテル「ホテル・カンボジアーナ」を開業されていた。外国人が宿泊できるホテルは唯一であったことから、日本大使館もマスコミ各社も、また大商社も他に選択肢はなく、当然PKO部隊も皆こぞってこのホテル内に事務所を構え、さらに関係者が宿泊していたので、オープンと同時に大盛況であった。一度、そのホテル・オーナーご家族と当時の副首相も加わった会食に、何故か私も同席させていただいた。彼らのホテル開業時の苦労話は傑作だった。会社というものが未だ殆ど存在しない国で従業員を雇用するには、まず給与労働の意味を理解させる必要がある。面接で給与額の話は真剣に聞いているが、そもそも何を源泉として給与を得られるのかを理解しない者も結構おり、どうして毎日決まった時間に出勤しなければならないのか、というところから説明しなければ、給料日に出勤しお金をいただいて帰れば良いと考える者もいる。靴を履くという習慣も無かったため(皆サンダル履き)、革靴が堅くて足が痛いからと、支給した靴を皆でホテルの裏の河川へ持っていき水に浸してしまう。ホテルの食事客はというと、レストランで出された食器類が美しくて珍しいと、食後にきれいに拭いて持ち帰ろうとする。しかしこの様な重要な席に参加させていただいたのに、与太話しか記憶していないとは情けない。

 もうお一人は日本へ脱出された、こちらも中国系カンボジア人のKさん。東京の代々木でカンボジア料理店を経営されてまた成功されていたのだが、やはり国が開かれたと同時に祖国でのビジネスを再開され、確か当時は、政府から新聞の発行権を得たとのお話を伺った。一度代々木の店をお訪ねし、バンコクでも数回お目にかかった。その際、PKOは一時的なものだから、カンボジアでのビジネスは慎重にすべきだと釘を刺されたのを記憶している。正論であった。

 その頃のプノンペンと云えば、PKOを当て込んだタイ人、ベトナム人、日本人がこぞってレストランやマッサージ店、ナイトクラブなどを開業していたが、PKOが去った後そのほとんどは消えていった。

 それから20年が経ち、今回訪れた街は全く別の国に生まれ変わっていた。周囲を圧倒する政府庁舎や(派手なものは中国政府のODA)オフィスビルが立ち並び、走る車は大型高級車ばかりで、若者ばかりが目立つ職場で、皆目を輝かせて働いている。

 もちろん行政やビジネスのシステムが確立するまでにはこれから相当な時間がかかるであろうし、今現在の賑わいは再度の直接投資バブルである。この7年間における経済特区への直接投資に限定しても16億ドルに上っている。日系企業は200社を超え、日本人学校も開校し、大規模なイオン・モールも開業した。

 ここで一番の魅力は、何といっても外資に対する規制が皆無だということだ。農業から金融に至るまで、すべて外資のみで行える国は他に例が無い。日本の農業技術を以て、安価な労働力(最低賃金はタイの約50%)で生産を行えるとは、正に新天地である。今回プノンペンの中央市場をリサーチしたが、考えられる野菜は皆揃っており、当然価格もタイにに比べかなり安価であった。引き続き次回も報告させていただく。