あれれ、やけに道路が空いているぞ?
1997年7月初旬、勤務先からの帰宅時のこと、通常ならラマ4世通りへの高速出口から住居周辺(スリウォン通りまでずっと渋滞の中を30分以上かけて帰るのだが、この日だけはすいすいとほぼノンストップで走り10分程で着いてしまった。今から遡ること15年、その年の2月5日付で事務所を開業した。当然クライアントも少なく、事務所もバンコク郊外のバンナー通りに位置する最初のクライアントの事務所の一角に居候し、我々夫婦と従業員1名で細々と仕事を始めたところだった。

翌朝の報道により、タイ・バーツが大暴落したと聞いた。偶然なのかも知れないのだが、昨夕の状態は前触れだったのではと考えた。実際それ以後の数カ月は交通渋滞が緩和されたのだった。1987年くらいからの直接投資ブームは首都圏のタイ市民の生活を豊かにさせ購買意欲が高まり、その様なおいしい生活経験の無い給与労働者の多くがギリギリの額までローンを組み、夢であった自動車(価格は日本市場価格の2倍)と、バンコク郊外で開発が進んでいた建売住宅を争う様に購入した。この通貨危機は彼らの失業や収入減を生じさせ、銀行やファイナンスは多くの担保引き取り物件(車両や不動産)を抱える事態に陥ったのである。

通貨危機の原因をおさらいする。それまで年9%の高度成長を維持してきたタイ経済であったが、中国や他の東南アジア諸国へと直接投資が分散し始め、すでに成長維持が困難になりつつあった。
また米国経済が好景気に向かうに従い、当時米ドルとの固定相場制(ドル・ペッグ制)を採っていたタイ・バーツの価値が実勢に関わらず同様に上昇した。この現象は通貨高により輸出を困難にさせる要因となる。元よりタイ政府は、金融緩和によって外資による直接投資を促し、これを成長戦略として実施してきた訳だが、ヘッジ・ファンドはバーツ相場が過大評価されたものとの見方を示し始め、この時点を境にバーツの空売り、そして相場の暴落後に買い戻すという手法を繰り返した為、タイ政府も最早自国通貨を買い支えることが出来ず、変動相場制に移行せざるを得なかった、という経過である。その結果として、それまで24.5B/$であったバーツの対ドル相場は、1998年1月には56B/$まで暴落。そして同時期にタイと同様な政策を取っていた近隣の東南アジア諸国や、韓国にまで飛び火したのである。

上記の住宅ブームも、外資が不動産開発企業に多額の投資をした副産物である。
その後、インドネシアのスハルト政権、タイのチャワリット・ヨンチャイユット内閣は失脚し、投資先としての東南アジアの信用レベルが大きく低下し、中国への投資にさらに拍車がかかる、という結果も生じた。IMFの要請であったかどうか定かではないのだが、この減少は歳入省の政策にも影響を与えた。翌年歳入省は、企業の決算時に外貨建て負債をバーツ建てで洗い替えし為替差損の損益計算書計上を義務付け、親会社からの融資に頼っていた多くの日系企業は、営業利益は上げていながらもこの差損を計上し、大幅な赤字決算を強いられた。
その後のタイ産業界は軽工業から重工業、つまり繊維あるいは労働集約産業から車産業へと徐々にシフトしている。それが功を奏したのか、ここ数年においては再度好景気に見舞われインフレが昂進し、労働力不足に悩む国と変じている。