今回は、開放政策への転換で注目を集めているミャンマー、その首都ヤンゴンの報告である。国土は日本の2倍弱、人口約5千万というデータ上の数値だが、英国統治から独立後、シャン族・カチン族・モン族といった山岳少数民族が独自の軍隊および自治政府を持つ半独立地域があるため当然それらの正確なデータは加味されていないものと考えるべきだろう。軍政から共和制に移行して以来急速に経済自由化政策を進めており、現在では外資進出企業向けのダウェイ工業団地開発も開始され、日系大手企業の進出も決まっているということだ。軍政により経済発展が立ち遅れた結果として、現状人件費の安さが直接投資や貿易に対する大きなメリットとなった訳だ。また、ルビー(世界シェア90%)等の宝石、石油、チーク等の木材、米(国土の60%が水田)等の資源国という側面もあり、非常に高いポテンシャルが魅力である。

私は1984年、偶然この地に降り立ち(というより立ち往生させられ)、2泊の滞在をした。当日はダッカ(バングラデシュの首都)発バンコク行きの便に乗ったのだが、タラップを降りてみたら何とヤンゴン(当時の呼称はラングーン)空港であった。エンジン・トラブルで不時着し足止めをされたという懐かしい思い出だ。当時は学生の身にていくらでも時間はあり、キャリア側のトラブルなので宿泊や食事付、喜んで物見遊山を楽しませていただいた。当時の市内は車も極端に少なく、市民の歩みを見て東南アジア一遅いという気がした。
さて今回は、見違える様な近代的空港ターミナルに到着、ホテルへ移動したが、先ずチェックインの為に1時間待たされる。経過は省くが、ホテル・スタッフが予約システムに対応できていない模様だ。しかも滞在する外国人が急増し、この月よりホテル代は倍に跳ね上がっている。しかしホテルのロビーやレストランではあちらでもこちらでも商談に花が咲いている。ネット接続は問題ないのだが、携帯電話は使えない。この国で購入するSIMカード以外は使用できない。これはすぐに改善されるべきだろう。

午後、身体が空いたので先ずは町の中心を歩いてみることに決めた。とにかく繁華街に行ってくれと指示し、タクシーを降りた地点は大きなマーケット(宝飾品や土産物)の目の前だった。散策してみると証明が少々暗く、いかにも闇両替人らしい怪しい風体の男に為替レートを聞いてみたが、ホテルで両替するのと大差は無い。かつては実勢レートと公定レートが何10倍も違っていた筈だが、制度が改善されたのだろうか。また近くの交差点には如何にも日本人ビジネスマン向けという風情のトレイダーズ・ホテルがあり、向かいにはサクラ・タワーという、これも日系企業が集中的に入居している高層オフィス・ビルがある。このビルの最上階が展望レストラン・ラウンジになっているので翌日食事に利用した。夜景(但しあまり街は明るくない。パゴダはよく見える)を楽しみながらお食事、というのが売りの高級レストランだったが、料理はいい加減なタイ料理、ベトナム料理や洋食で、再訪する気にはならないというレベルであった。

この日は近くのレストランでミャンマー製のビールを注文し、ウェイトレスのお譲さんにこの周辺についてあれこれ聞いてみたり、近所の露店でアウンサンスーチー氏のキーホルダー(20円程)を買ったが、普通に英語は理解する様である。この点はバンコクよりも便利だ。やはり元英国領ということなのだろう。タクシーの数は非常に多いけれども、よく選ばないと恐ろしく古い車も結構走っている。足元の路面がよく見え、ドアの内張りなどという走行に影響のない装飾物はとうの昔に朽ちている様な、幼少時に見た記憶のあるモデルの日本車が今も元気に走っている。周囲の地域は、繁華街といっても生活必需品を売る商店街で、興味のあるものは無かった。
ビジネスマン向けの和食や洋食のレストランはあちこちに点在しており、この地域へ行けば色々揃っていて選択できる、という様な都合の良い場所は無い様だ。やはり未だ俄作りの街、という雰囲気。市内北部のインヤ湖周辺は古くからの観光地で綺麗を結構見かけるが、方向違いの郊外に少し走っただけで、少しショックを受ける様な貧民地域もあった。また再訪の際には報告出来ると思う。