「ズガーン!」という爆発音が2度響き、バタバタと我先にと避難する群衆が傍らを走り過ぎて行った。5月初旬のある日、午後9時過ぎのことである。呑気な話ではあるがこの時私は、報道に携わる友人と二人、大通りを占拠する赤シャツ派デモ隊が膨れ上がりバリケードの最前線となっていたルンピニ公園の、ラマ4世通りを挟んで対峙するシーロム通りのパブでビールを酌み交わしていた。店の大きなガラス窓のすぐ前には、タイ陸軍の装甲車が待機している。ここなら物理的に一番安全であろうと考えてのことでもある。何故この様な時に最前線で酒盛りなのか、という疑問は置いておく。

この店に入る直前、午後6時半頃のことだが、つい最近組織されたと報道されている「マルチカラー」と呼ばれる人たち(親タクシン支持派である赤シャツ、反タクシン派であり既得権益層をバックグラウンドとした黄色シャツ、それに対しどちらにも与せず騒乱に反対する都市市民)が、ラマ4世通りを挟んだ最前線に集まり、「赤シャツ出て行け!」「バカ者出て行け!」と大声でシュプレヒコールを上げていた。
その数は5~600名くらいであったろうか?この人たちは、同胞が政治の為に二派に分かれ、暴力沙汰にまでエスカレートしている事態を憂い、和解を訴える為自然発生的に集まって来た。
私は状況を確認するために最前線まで進んだのだが、群集心理というのか皆興奮気味であり、感情的な罵声を聞いて非常に危険だと感じ、いや早くビールが飲みたいので、すぐに引き返してきた。
翌日の報道によれば、あの2発の爆発音はルンピニ側の赤シャツ派バリケード内から発射されたグレネード弾(手榴弾様の小型爆弾を発射する武器)が我々のいたシーロム通りに撃ち込まれ、結果一般市民8名の命が奪われたのだった。
海外逃亡中の刑事犯罪人である前首相が、祖国を追われたことに対する利己的な復讐心からなのか或いは、不正蓄財をした莫大な財産を費やしまた政界に復帰しようという黒い目的の為に、さらに一般市民の生命が犠牲にされた。この悲劇の翌日、やっと重い腰を上げたタイ国陸軍が私の生活圏(事務所も自宅もこの地域にある)であるシーロム地区(金融の中枢を支える地域でもある)をブロックする為、有刺鉄線を張り多人数の兵士を常駐させることとなった。とは云えそこは自由の国タイである。ブロック内の夜の繁華街は平常営業を続けており、田舎のキャンプから派兵された、恐らく10代と思しき若い兵士が機関銃を担いだままゴーゴーバーの入口に群がり、水着姿の踊り子に見入っている様子は、やはり南国らしい長閑さであった。

その後も内乱は治まる気配を知らず双方の犠牲者は増えるばかりだ。すでにロイター通信のカメラマン村本氏も取材中に流れ弾に当たり亡くなっており、赤シャツ側に与したカティヤ陸軍少将が何者かによる狙撃で死亡した。身近な話では私のクライアント企業の従業員も、バイクでの通勤途上、狙撃により頸椎貫通で即死した。
最後の数日間、私の就寝中もライフルのパンパンという乾いた銃声が時折聞こえてきて、銃声を子守唄に眠るという初めての経験をしたのだ。そして・・

5月19日早暁おそらく午前3~4時頃、浅い眠りの中で私はかなりの台数の重量車両が、マンションの寝室から30m程先のサトーン通りをサーっと通り過ぎて行くのを確かに感じた。その早朝、ラマ4世通りの最前線に整然と隊列を整えた陸軍の装甲車が、一斉にデモ隊の築いたバリケードを破壊し、銃撃戦を続けながら占拠地の中心ラプラソン交差点に到着するころ、デモ隊の首謀者は、活動停止を宣言した。
一体何のための犠牲者であったのか、何故政府はデモ隊の占拠開始時に素早く国軍を動かせなかったのか。