友人Sとは、互いの環境が様々変化したり、何かの折に仲違いが生じ何年にもわたって音信不通になることもあった。それでも必ず何方からともなくまた連絡を取り合い、機会がある毎に会い、積もる話が尽きず日付が変わっても延々と痛飲する、という関係が30年以上続いてきた。彼が死に瀕している、しれともすでに・・・という考えが頭をよぎり、多忙の折面談や事務仕事を続けてはいたが、心ここにあらずという状態で2日が過ぎた。入院先を聞いていない以上動き様も無い。

しかしその夕刻、バンコクの友人との約束で待ち合わせをしていたのだが、4~5年の間直接の連絡の途絶えていたsとの共通の友人から電話が入った。彼は以前タイ関連のビジネスをしていたことから接点があったのだが、携帯と共に連絡先も紛失したきりなっていた。私は開口一番「sはどうなったんだ」と叫んだ。「予断を許さない状況だが、今現在は命に別状はない」との返答に、私は感情を抑えきれず、友人や周辺の客の目を意識する余裕も無く泣き崩れた。「とにかく良かった。至急準備をして、日本へ発つから病院の場所を教えてくれ」。その2日後の夜行便でバンコクを発った。

空港から直行した病院は、おや、こんなところかと思う程小規模だったが、弱り切ってはいるが本人は通常の会話ができる状態で私は胸を撫で下ろした。ただ現状では肝硬変をすでに超え、肝機能不全に陥っていること、若い頃から患っている肺もその影響で肺炎を起こし、それが治まらないことには肝機能を補うための輸血もできない、とのことで顔色は絵の具を塗りたくった様な黄疸を示している。

そんな病状でありながら、まだビジネス・パートナーであったA女史のことばかり心配する彼に「事情は分かるけれど、今は自分の身体だけを心配してくれ」とも言ったが、落ち着いて世間話もして、夕刻まで病室にいる間には家族や友人が訪れ、彼が寂しがることは無い様であった。

私は限られた日程、つまり2日間だけの滞在であったので翌日も朝から病室を訪れ1日を過ごしたが、その日の午後看護師長さんが病室を訪れ、病状の説明があった。「一時は合併症になりかけ全く予測のできない状態に陥っていたが、今朝からそれも落ち着き輸血を開始したので、取りあえずひと山越えた」ということで、同席していた友人もsに「お前、命拾いしたじゃないか」。それでも本人は「うそ~。一生酒が飲めないの?」と甘えたことを云う。

その後も本人には数回電話を入れ、その都度状況を聞いているが、入院時の生存率は何と3%だったのだという。今現在は自宅療養をし身体を動かすことはできるが、肝機能が健常者の10%くらいなので外出もできず、しかもこれ以上の回復は無いだろうとのこと。

もちろん飲酒過多で身体を壊したのは本人の意思に関わることであるが、これが尖閣という外交問題から派生したことは間違いない。a女史は未だ行方知れず、現地情報によれば同様のケースで自死の道を選んだ経営者は少数で無いと云う。政治問題の陰で犠牲になるのは常に一般市民であり、大局を動かす者は必ず蚊帳の外にいるものだという歴史の常識は、時代を問わずこれが覆る可能性は皆無であろう、と再認識を強いられた事件である。