企業の進出先というイメージ先行するこの頃、特に海外では宗教などの文化的な話題は少し置き去りにされている感があるこの国であるが、現実には殆どの人々が敬虔な仏教徒であり、それは国民生活の根幹なである。

日本では「小乗仏教」と呼ばれる、ベトナムを除く東南アジアの仏教国で信仰されている上座部仏教は、インドから中国経由で伝来した我々の考える仏教とはかなり趣が異なる。こちらはスリランカ、ミャンマーを経てタイやラオス、カンボジアに伝わったもので、学問的にはこちらの仏教が、仏陀が直接弟子たちに説いた教義をそのまま実践するシンプルかつ純粋なもの、と云われている。当地では人々の生きる拠り所であると同時に、この仏教というものが政治行政と結びつき一体化したシステムとして機能している。

国王は立憲王政上最高権力者であると同時に仏教界(サンガ)の頂点であり、敬称上の区別でも、僧侶と同様に「オン」と称され、俗界の人「コン」ではない。つまり仏教の信仰と国主への崇敬が一体化しているという見方もできる。そして実際にすべての国民から尊敬される存在であることに変わりはない。

僧侶は毎早朝托鉢を行い、供物で朝食と昼前の食事を賄い、正午以降の食事は戒律上許されていない。かつては僧侶の衣服である黄衣(チーオン)、托鉢用の鉢(バート)、煙草以外の個人所有物(現金さえも)は認められていなかったという程、厳しい戒律に従い生活をしていた。禁酒や女性の体に触れないことなどは当然のこと、殺生戒に従い身体に蚊がとまればそっと避け、歩行の際にも蟻を踏まぬよう注意を払う、大声を出すことも慎む、という。若かりし頃、私もその様な生き方を美しいと思った時期があり、友人の誰かにそのことを漏らしたのか、その後タイに赴任し友人への連絡が暫く途絶えていた頃、「小川はタイで出家した」という噂が流れたことを随分後に聞いてこちらが驚いたものだ。

庶民、特に純粋タイ系の人々の人生観は、常に仏様と共にある、といっても過言ではない。

托鉢僧への供物、寺へ参拝すること、これらの信仰における行為はタンブン(徳を積む、の意)と云い皆の生活の一部であり、これが精神安定のためにも大切なものであり、熱心な方は多くの知り合いから寄付を集め、お寺の施設を寄進する。その結果公共の資産であるタイの寺院は、あの様に常に鮮やかな景観を維持しているのである。

もちろん男性は、今では義務ではないが短期間であるにしても僧修行をすることが大きなタンブン、であり最高の親孝行と考えている。ただ、元々は7月の今頃(入安吾、カオパンサー、実は本日がその日である。我々にはつらい禁酒日。なぜか禁じられると飲みたくなるものだ。)から10月の出安吾、オークパンサーまでの3か月を修業の時期としていたのだが、やはり経済社会の発展につれ短縮され、現在では1週間程度の出家が一般的だ。また、求婚している女性の親御さんに大人の男性として認めてもらうというのも大きな目的らしい。

もう一つ、信仰と大いに関連のある死生観について触れておく。当地の人々は生命の絶える時期について「これが仏様にいただいた我々の寿命である」という感覚、つまり諦観を持って生きている。身内の不幸に際し年上の者が、この様な慰め方をよくする。また医師の側の死生観も同様のものであり、死に瀕する患者さんに対して不自然な延命治療を行わず、家族に判断を委ねる。家族の側も「それでは」とそのまま自宅へ引き取ったりもする。わが国では法律的・倫理的にかなり厳しい場面だが、私個人としては自然の法則に従った潔い逝き来、ではないかと思ってしまう。無理矢理のの延命措置のために皆が右往左往するのが、果たして逝く人に幸福をもたらすのか。。。
 この様なタイミングで、私は自分を戒める意味も含め仏教というテーマについて考えてみた。たまには素面で人生の行く末を思う夜も良い。